2016年1月25日月曜日

archaic smile

                                
お伝えしていたとおり、昨日一昨日と、ISC・21 第100回記念例会に参加させていただきました。

会場の奈良教育大学に近づくと、白毫寺はこちら、
という大きな看板が、すぐ目に飛びこんできました。
白毫寺も、40年前にいちど訪れたことのある真言律宗の古刹です。山門をすぎた辺りから、瓦を乗せた古い土塀が石段の両側につづく美しい光景が、寺の名前を目にしたとたんに、鮮明に甦ってきました。もうすこし早く研究会の会場に着いていれば…と思いました。

翌日は予定どおり、稲垣先生、研究会の先生方のご案内で、明日香村を訪れることができました。
飛鳥寺の釈迦如来像とも、歳月をこえての対面です。コートディヴォワールの村で暮らしていたときも、体調を崩してかなり高熱が出てしまったような局面で、一、二度、夜の夢に現れてくださった仏さまです。飛鳥寺であらためて仰ぎ見た釈迦如来は、かつて西アフリカまで、風来坊の救済に来てくださったときより、実際はるかに秀麗で威厳に満ちた御姿でした。

古代ギリシア美術研究の用語 archaic smile を
止利仏師の作品に転用したのが
誰を嚆矢とするのかは、 忘れてしまいました。私がその和訳にあたる「古拙的微笑」という言葉をはじめて知ったのは、やはり中学時代、おそらく新潮文庫版で手にした亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』だったのではないかと、おぼろげに記憶しています(記憶ちがいかもしれません)。

古拙という漢語には、単に「拙い」という以上の、時の経過によって生みだされた美の形象が、幾ばくかなりとも含意されてきたことは事実でしょう。ただ、archaic という形容詞がある時期まで頻繁に登場していたような研究分野にその後奇しくも足を踏み入れたのち、40年後の飛鳥寺であらためて釈迦如来の尊顔にまみえてみると、archaic smileを古拙的微笑と訳すのは、やはり明らかに間違っているように思いました。

堂内の出口にいたる回廊に、焼失した光背部分の小断片が展示されていることに、今回初めて気づきました。法隆寺金堂釈迦三尊像の、あの飛鳥美術の粋といえる止利派様式の完璧な構成は、残念ながらこの古仏から喪われてしまいました。しかし、おそらくは後代の補修水準などを考慮したと思われる文化庁の評価基準とは違い、私のなかで、この作品はまぎれもない「国宝」です。今回の小フィールドワークのテーマだった乙巳の乱を境に、この国の仏教美術は北魏様式と決別し、白鳳仏の時が幕をあげることになります。