2017年9月15日金曜日

ふたつのアフリカン・ドリーム

『インストール・アフリカ』、最終企画のお知らせです。ふるってご来場、ご鑑賞のほどを!

東京外国語大学 TUFS Cinema アフリカ映画特集 「ふたつのアフリカン・ドリーム」
                            (入場無料/申込不要/先着順/定員216名)

第1回 『アフリカ・ユナイテッド』
日時 2017年10月13日(金) 東京外国語大学 研究講義棟2階 227教室

17:40- 開場
18:00- 映画『アフリカ・ユナイテッド』上映(90分)
19:30-  フリートーク: 
          エリック・カベラ(映画監督/本作プロデュ-サー)×吉田未穂(シネマアフリカ代表) 
                                              *日本語での適宜通訳あり
作品紹介/フリートーク出演者紹介はこちら (SNS共有拡散 希望)


第1回 『アフリカ・パラダイス』
日時 2017年10月27日(金) 東京外国語大学 研究講義棟2階 227教室

17:40- 開場
18:00- 映画『アフリカ・パラダイス』上映(85分)
19:25-  フリートーク: 
          小田マサノリ(現代美術家/文化人類学者)×真島一郎

作品紹介/フリートーク出演者紹介はこちら (SNS共有拡散 希望)


主催:東京外国語大学 科学研究費基盤研究(B)『統治思想としてのオイコノミア』
協力:シネマアフリカ実行委員会/岩波書店/勁草書房                     20170915




 アフリカ・ユナイテッド trailer (10月13日の上映会では日本語字幕が付きます)
アフリカ・パラダイス trailer (10月27日の上映会では日本語字幕が付きます)

2017年9月12日火曜日

第7回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会


uma janela ( à la Guinée-Bissau, juillet 2010, i. majima)

今月24-25日、同志社大学にて
第7回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会が開催されます。

プログラムは下記のとおりです。
胸躍る発表の連続。わたしは、
とくに初日の第2パネル
「文学と人類学のボーダー」で
勉強しようと思っています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆






 第7回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会 プログラム

2017年9月24日(日)・25日(月)
於  同志社大学今出川キャンパス 良心館305教室

9月24日
10:30〜12:00 第1パネル【個別発表】
司会:中川成美(立命館大学)
①目野由希(国士舘大学)
1954年ロンドンにおける亡命ペン作家作品集刊行に至るまでの国際ペンクラブ・ロンドン本部と欧州史
②志賀俊介(首都大学東京)
インド系アメリカ人の自発的亡命――ジュンパ・ラヒリにみる英語からの脱却と作家としての権威の所在

13:00〜15:00 第2パネル【文学と人類学のボーダー】
司会:西成彦(立命館大学)、真島一郎(東京外国語大学)
③古矢晋一(東京農工大学)
エリアス・カネッティの「接触」理論
④国重 裕(龍谷大学)
マルグリット・デュラスの「声」――『ラホールの副総領事』を中心に
⑤ソン・へジョン(東京大学大学院)
(「音」で飛び立つ文学、その)「声」のフィールドワーク

15:15〜17:15 第3パネル【東欧文学から世界文学へ】
司会:阿部賢一(東京大学)、コメンテーター:田中壮泰(立命館大学)
⑥須藤輝彦(東京大学)
クンデラと世界文学――視差効果としての亡命
⑦島田淳子(大阪大学)
『ボヘミアは海辺にある』――リブシェ・モニーコヴァーの拡大する中欧像をめぐって
⑧簗瀬さやか(大阪大学)
ハンガリー文学におけるトランシルヴァニア出身のハンガリー人作家の活躍
17:30〜 懇親会

9月25日
10:00〜12:00 第4パネル【文学首都とその分身】
司会:柳原孝敦(東京大学)、コメンテーター:澤田 直(立教大学)
⑨渡辺惟央(東京大学大学院)
フランス第二の文学首都アルジェ:パリとの文芸交流と『アルジェリア仏語文学』の形成
⑩福島 亮(東京大学大学院)
イヴァン・ゴルとエメ・セゼール――1943年のニューヨークにおけるフランス語による出版と戦時文学場
⑪長塚織人(東京大学大学院)
非領域的言語の小さな王子――ユダヤスペイン語版『星の王子さま』からみる、さほど惑星的でない言語ポリティクス

12:15〜13:15 発起人・運営会議(発起人のみ)

13:30〜15:30 第5パネル【脱=植民地化の文学――敗戦/解放後の日本とコリアを事例として】
司会・コメンテーター:西成彦
⑫廣瀬陽一(大阪府立大学大学院)
金達寿の新聞記者体験――その文学的形象化をめぐって
⑬原 佑介(立命館大学)
旧「皇国臣民」たちは戦後/解放後どのように出会うか――李恢成『証人のいない光景』を中心に
⑭姜信和(名古屋大学)
尹東柱と植民地の日常――詩世界と解放(分断)後の評価との差異をめぐって

2017年9月9日土曜日

ヤナマール、世界の誰もが

un crépuscule à Dakar ( sep. 2010, i. majima)
先日刊行をお伝えした訳書
『ヤナマール』所収の下記拙稿が、勁草書房編集部ウェブサイトにて、全文アップロードされました。

真島一郎
「ヤナマール、世界の誰もが」

管啓次郎さんがこのサイトに寄せている連載フォト「コヨーテ歩き撮り」も、ステキですね。

編集部の関戸詳子さん、
本書の企画では、とことん
お付きあいくださり、
ほんとうにありがとうございました

2017年9月5日火曜日

Anything is possible - 『インストール・アフリカ』予告 ver. 2


design:  illcommonz



(下) エリック・カベラ
山形国際ドキュメンタリー映画祭2017出品作品
『イントレ』 trailer

2017年8月26日土曜日

ヤナマール セネガルの民衆が立ち上がるとき


おととし日本に招いたヒップホップグループ、クルギを中核とするセネガルの社会運動体ヤナマールについて、このほど訳書を刊行しました。


ヴュー・サヴァネ、
バイ・マケベ・サル著
『ヤナマール  セネガルの民衆が立ち上がるとき』
真島一郎監訳・解説
中尾沙季子訳、
勁草書房、
2017年8月20日発行。


「インストール・アフリカ」
第二弾として、お届けします。

2017年8月2日水曜日

学部ゼミ合宿2017

un matin au logement  (I.Majima, 2017)
今年は7月28日から31日まで、
3泊4日の日程で、学部3年生のゼミ合宿@軽井沢を実施しました。
昨年同様、栗田ゼミとの合同企画で、院生もふくめて参加者は30名ちかくになりました。

今年度合宿の課題テクストは、
田中雅一・中谷文美 編
『ジェンダーで学ぶ文化人類学』
(世界思想社、2005年)でした。
事前に分担を決めておいた発表者だけでも、全15章を20人が担当し、合宿前半はひたすら議論。あいかわらずのハードな日程をこなしてきました。(もちろん後半には、栗田先生もまじえ、楽しい行事が続きましたけど)

2017年7月26日水曜日

思想の言葉

un coucher du soleil au Liban, août 2009 ( I. Majima)

先週18日に刊行をお伝えした『思想』アフリカ特集号掲載の下記拙稿が、このほど岩波書店HPにて全文アップロードされました。

真島一郎
 「思想の言葉-思想するアフリカ」


2017年7月25日火曜日

和田忠彦 『遠まわりして聴く』
























和田忠彦さんが、「翻訳と詩と映像と絵画などをめぐって、ことばと声と音について」の新著を刊行されました。

和田忠彦 『遠まわりして聴く』 書肆山田、2017年7月25日発行。

「本書に収めた川端康成のイタリア語版選集にはじまって渡邊裕の音楽時評集で閉じる十八篇は、『声、意味ではなく』(平凡社、二〇〇四年)につづいて、月刊誌『國文學』(學燈社)に連載した文章を集めたものだ[…]その間、『声、意味ではなく』という前著の表題に籠めた意図に理解と共鳴をしめす読者も少しずつ現れてきて、意味生成の場としての翻訳が抱えこむズレはもちろん、翻訳という行為が展開する現場において意味自体は排除され、「声」そのものが物語の反覆や物語性への依存を許容しない演奏の結果なのだという認識にふれる機会も、さして稀ではなくなってきた」                                       (本書「あとがき」より)

川端康成、モラヴィア、宮川淳といった、過去の或る時期に自分がその大半の作品(モラヴィアについては全邦訳作品、ですが…)を読んできたような書き手が批評の対象となっていることの魅力にくわえ、なにより本書の端正な文体には思わずため息を漏らしました。

装画:松浦寿夫。

2017年7月18日火曜日

思想するアフリカ






































 『思想』(岩波書店)では初のアフリカ特集となる、「思想するアフリカ」 が、次週刊行の運びとなりました。
こちらからのお願いを快く承けてご寄稿くださった執筆者のみなさまに、あらためて心よりお礼を申し上げます。

小田マサノリさんが対談で口にされた絶妙な表現を拝借し、「インストール・アフリカ」 とひそかに銘打った一連の企画を、年末までにつづけて発信する予定です。その第一弾を、ここにお届けいたします。

『思想8月号 思想するアフリカ』(第1120号)岩波書店、2017年7月25日発行。

真島一郎 「思想の言葉-思想するアフリカ」pp. 2-6.

小田マサノリ・真島一郎 「〈対談〉 ファー・フロム・ザ・フィールド・オブ・アフリカ」 pp. 7-38.

2017年7月5日水曜日

松本三之介 『「利己」と他者のはざまで』

5月刊行の論集(本ブログ5月30日記事)所収の拙稿
 「力の翻訳- 人類学と初期社会主義」を一読くださった
以文社の勝股光政社長から、このほど松本三之介先生御新著の恵送に与りました。「何がしかの参考に」との書翰中のおことば、恐れ多いかぎりです。

松本三之介
 『「利己」と他者のはざまで-近代日本における社会進化思想』以文社、2017年6月20日発行。

「社会進化論そのものを明治思想のなかに位置づけること[…]近代日本の社会進化論に内包された思想的可能性を探るという問題意識[…]とくにすべての人間の「生きる」という自然の欲求に基礎づけられた生存権という自然の権利につらなる思想的可能性を見出そうという視点[…]」  
                  (本書「まえがき」pp. xi-xii)

この「生きる」という重大なライトモティーフにとどまらず、各論のなかでもとくに第六章の中江兆民論から七章の徳富蘇峰論、八章の丘浅次郎論にかけては、 拙稿との関わりが強い部分に思えます。とはいえ、なにぶん私は門外漢の人類学徒ゆえ、一から勉強を仕直さなければなりません。本書終章「社会進化論の思想的意味」は、初期社会主義もふくめた全10節の構成を眺めるだに、まさしく圧巻といえる内容です。これら一連の思潮の思想史的意義をいま、人類学の新しい発想に繋げていかなければと考えています。

2017年6月28日水曜日

川村伸秀 『斎藤昌三 書痴の肖像』

書痴。
愛書家ならば、この一言だけでおもわず陶然としてしまうような、まことに羨ましき存在者の様態。いいですなあ、書痴。
とはいえ、真の書痴を自称するには、ここまでの強度を生きつづけねばならないのだと、おかしみのなかで読者に思う存分、或る奥義の領域を見せつけてくれる一書。山口昌男の追悼論集で仕事をご一緒させていただいた川村伸秀さんが、このほど圧倒的な筆力で、評伝の大著を発表されました。

川村伸秀 『斎藤昌三  書痴の肖像』
      晶文社、2017年6月15日初版。

大正・昭和の書物文化興隆期に、奇抜な造本で書物愛好家たち垂涎の書籍を作り上げたことで知られている書物展望社。その社主であり、自らも編集者・書誌学者・蔵票研究家・民俗学者・俳人・郷土史家と多彩な顔を持っていた斎藤昌三(一八八七-一九六一)の足跡を丹念に調べ直し、その人物像と同時代の作家・学者・趣味人たちとの交友とを鮮やかに描き出した画期的な労作。今では貴重な傑作装幀本の数々をカラー頁を設けて紹介。詳細な年譜・著作目録も付す。(本書表紙そでの概要文)

カラー図版に川村さんの解説が添えられた、斎藤の手になる装幀の数々は、どれも息を呑むような、物凄い手の込みようです。そしてこの本の装幀がまた…! 途中でふと思い立って、ちょっと失礼、本書のカバーを剝かせてもらいましたら、カバー裏面にはなんと第二の表紙が。副題も微妙に変化していて、ニヤリとせずにはいられません。それにしても、書痴とエロスは、どうしてこうも交叉するのでしょう。本書でも、「性神探訪」から『濹東綺譚』にいたるまで、エロスの挿話が満載。城市郎の名が何度か言及されているからというだけでなく、当時の「主義者」系の人物群像が入り乱れてくるところも丸ごと含めて、90年代末から2000年代初めにかけて平凡社が『別冊太陽』の豪華な体裁で堂々刊行してくれた「発禁本」全3巻(嗚呼アリガタヤ…)の世界へと、ついつい読み逸れていきそうになりました。川村さん、例によってすばらしく丹念なお仕事の成果を読書界に届けてくださり、ありがとうございました。

2017年6月22日木曜日

『インストール・アフリカ』 予告映像

その1
Oliver Mobeli   Music and puppet band

古い文庫本から出てきたむかしのしおり


その2
パブロ・カザルス「鳥たちのうた」(1971年国連スピーチ&イントロ・ミックス)  exillcommonz



その3
ザイン制作
「ラマダーン月のほんとうの意味 2017年」日本語字幕つきillcommonzo

2017年6月15日木曜日

いやし難い記憶

先月のTUFS Cinema キューバ映画上映会で鑑賞することのできた『低開発の記憶』。
その原作の日本語旧訳が『いやし難い記憶』であったことは、不覚にも気づきませんでした。

あのあと、自宅とは別置の、書籍ばかりを詰めた大型段ボール40箱の奥をほじくって、どうにかこうにか
この旧訳本を見つけ、「救出」しました。
むかし古書店で買った、懐かしい書物も、この機会に
いくつか掘りあてられたのは、収獲でした。

映画のなかで、デスノエスの分身セルヒオが立ち寄った書店の棚に、ホセ・マルティの本が並んでいたシーンは、じつに印象的でした。




2017年6月8日木曜日

池田昭光さんの仕事 -「宗派の外部」 「流れに関する試論」

à Beyrouth, 2009 ( I. Majima)
「[…] 筆者が調査をおこなっていた地方の町で、とある若い夫婦の自宅にいたときのことである。両人ともスンナ派のムスリムで、三人の子がいる。筆者は、この夫婦とその子どもたちと一緒に、居間でテレビを見ていた。とくにどの番組を見ようというのではなしに、父親がリモートコントローラーでチャンネルをときどき切りかえていた。そのうちのとあるチャンネルで、ギリシア正教のものと思われる礼拝の様子が映しだされた。すると、4歳ぐらいの息子がテレビに近づき、画面を指さして、「これはキリスト教徒だ」と、筆者に言った。その様子を見た母親は、すぐさまその子のほうへ寄った。彼女は、いくらか力をこめながら彼の腕をとって、「失礼でしょう」と言いながらテレビから引きはなした。そして筆者に向かい、険しい表情で「似たようなものです(mitl ba'ada)と主張した。そのとっさの出来事や、母親の剣幕にたいして驚いていると、彼女はふたたび、「ムスリムとキリスト教徒は、似たようなものです」と強い口調で言った。
   その後、筆者自身が同様な発言をしたときにも、類似の反応が返ってきた。そういうときは、筆者はたいてい、宗派間の関係について興味をもち、宗派集団にかんする自他認識について質問をしようとしていた。あるとき、ギリシア正教徒の女性が、マロン派のキリスト教徒はムスリムのように頻繁に礼拝をするとか、かれらは今でこそ裕福だがかつては貧しかったということを言った。つまり、「マロン派キリスト教徒」という集団概念を主語に立て、かつ、他の宗派との比較について話していたのである。そのため、この状況であれば、おなじように比較の視点をもちこみながら宗派間の関係について尋ねても大丈夫なのではないかと思った。そこで、ギリシア正教とマロン派のちがいは何かと尋ねてみた。すると、「みんな神に由来しているのです(kell min Allah) という返事がかえってきただけで、彼女はそれ以上の詳細を語ろうとしなかった。当初は熱心な様子でマロン派について語っていた女性が、いまや口をつぐんでいる。ひさしの張りだした屋外のスペースでコーヒーを飲みながら雑談をする、そんな穏やかな時間帯の会話だったのだが、話はそれ以上すすまなくなってしまった」    (「流れに関する試論」pp. 6-7)

 先月5月27-28日に、日本文化人類学会第51回研究大会(於 神戸大学)に参加してきました。学会の口頭発表にたいする感想としてはあまり用いられない形容かもしれませんが、わたしはそこで、じつに味わい深く、陰翳を織り込めたような余韻の残るプレゼンテーションに出逢いました。上ですこし長めに引用したテクストの書き手、池田昭光さんの口頭発表です。

池田昭光 「宗派の外部 -レバノンにおける相互行為を事例に-」
  (2017年5月27日、日本文化人類学会第51回研究大会、於: 神戸大学鶴甲第一キャンパス)

 一見したところ、ごく普通の発表内容を想わせる発表タイトルですが、先行研究との関わりから問題の所在を坦々と説く池田さんの語りの力に、おもわず冒頭からスーッと引き込まれました。
 レバノンの宗派主義をめぐる近年の研究のうち、J.Nuchoは、「人々の相互行為」を通じ「不断に形成されるもの」として、つまり「変わりゆくプロセス」としての「日常の宗派主義」を考えようとしてきた。池田さんはここからさらに一歩をすすめ、「移ろいゆく現在を通じて支えられるもの」としての宗派主義(または宗派主義に直接関わらない何か)が日常にふと顕現した二つの事例を、じつに繊細な省察のスタイルとともに提示します。そのうちのひとつが、上に引用した、スンナ派ムスリムの夫婦と子どもたちの、ある日のテレビ鑑賞風景でした。この事例について、池田さんがメモランダムの形式でまとめた要点とは、次のものでした。とりわけ、日常にほんのかすかな亀裂を滲ませる、一瞬のあえかな何事かの出来が、メモの最終部分で或る謎として輪郭づけられ、聴き手に投げかけられます。

・言葉、身振りを通して、宗派間の違いが露わになる
・違いから目をそむける、違いの顕在化を避ける
・「ある」ものが「ない」ことにされる。「しらないふり」
・「ない」ことにされても、元の「ある」は残る
     →「似たようなものです」 →「違う」が残る  (口頭発表「宗派の外部」パワポ画面より)

 研究大会で決められたわずか十数分の発表でしたが、これに感銘をうけたわたしは、帰宅後に上述の既発表稿を一読し、この池田昭光という書き手の、今までふれたこともない思考スタイルの魅力にすっかり嵌ってしまいました。あまり懇切な説明は添えられていませんが、なかでも「シャッターを閉める」という見出しの付いたこの論攷の第4節を、なぜジョルジュの挿話が占めねばならなかったのか、そのことの理論的な必然性を、読後もしばらく考えていました。

池田昭光 「流れに関する試論-レバノンからの視点」『アジア・アフリカ言語文化研究』87号所収、2014年。
(クリックで、全文閲覧可能 [東京外国語大学学術成果コレクション])

2017年5月30日火曜日

人類・学・の外へ

渡辺公三先生の御退職を記念する論文集がこのほど刊行されました。わたしは、下記拙文を寄稿させていただきました。

渡辺公三・石田智恵・冨田敬大(編)
『異貌の同時代- 人類・学・の外へ』
以文社、2017年5月15日発行。

真島一郎 「力の翻訳- 人類学と初期社会主義」
   上掲書、pp. 353-391.

渡辺先生に初めてお会いしたのは、たしか1983年に、先生が駒場の演習授業を非常勤で担当されたときのことです。わたしは学部3年生で、演習のテクストは
Nuer Religion でした。とても静かな口調でとても尖ったことをお話しされる先生からたえまなく湧き出る緊迫感に、受講者一同、終始ビビりまくっていた記憶があります。

静かな口調が、なぜ論理としては張り詰めていくのか。
渡辺公三の聴き手や読み手は、おそらくすでにそのころから、或るひとつの問いと課題に向きあうよう、不断に促されていたからです。今回の論集の帯に記された一言は、その点でまぎれもなく事の本質を証しているのではないでしょうか。

「思考しえないもの」を思考するために

2017年5月26日金曜日

TUFS Cinema キューバ映画上映会

再来週の6月9日、
アゴラ・グローバル
プロメテウスホールにて『キューバ映画上映会』が
開催されます。

TUFS Cinema
キューバ映画上映会
2017年6月9日(金)
16:00~ (15:50開場)
入場無料・予約不要
上映作品:
『低開発の記憶
     -メモリアス-』
解説・トークセッション
比嘉世津子
(Action Inc.代表)×
久野量一(本学)

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『低開発の記憶-メモリアス-』
1968年/キューバ/104m/
トマス・グティエレス・アレア監督

作品あらすじ:1961年、革命後、妻や家族が国外に脱出するなか、作家のセルヒオは一人ハバナに残ることを決める。周囲の人物や社会を軽 蔑し、孤独に生きる彼は、激変する街のなかで、自らの記憶にすがろうとする。当時のドキュメンタリー映像をふんだんに使い、革新的な映像手法を用いて革命 後のキューバをみつめる、キューバ映画史上の最高傑作。
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なお、今年度春学期の火曜3限『グローバルスタディーズ』受講者には、この上映会に参加して簡潔なレポートを提出することを、初回アクティブ・ラーニングの課題とします。(提出先: 13日火曜3限、226教室にて)

久野量一さんの下記論考も、オープンアクセスで全文を読むことができます。ぜひ参考になさってください
久野量一 「『低開発の記憶』にみる植民地知識人の戦略 : カリブ文学論その1」

2017年5月18日木曜日

ガーナから

ガーナ大学に在籍しながら、アシャンティの看板絵師に弟子入りして長期フィールドワークをつづけている
森昭子(もり・しょうこ)さんから、こんなにチャーミングな写真を添えた近況報告のお便りをいただきました。

「息子が体調崩したりPCぶっ壊れたりいろいろありましたが元気にやっております。オールマイティのところで三ヶ月間弟子になりました。写真は最後の作品です」

息子さんのあらたくん、こんなに大きくなったんですね。本人にまっすぐ見つめられてるような、いのちの躍動がそのまま息づいている一品。師匠のお名前、絵師だけでなく教育者としても伊達じゃなかったね。市場によく置いてあるようなベンチが写っているのも、アトリエと木の匂いがここまでしてきそうです。

濃密な時の流れをそのまま注ぎこんだような
骨太のモノグラフをぜひ完成させてください。

森さんに最初にお会いしたのは、AA研最後の一年で開講した大学院の演習授業でしたね。あのときいっしょに勉強した高橋さん、立林さんの活躍も、陰ながらお祈りしています。

2017年5月8日月曜日

Amaryllis, ses pétales en lueur


蝶の影さしたのち

2017年5月5日金曜日

2017年5月4日木曜日

蝶の影さす




今年もけなげに冬越えをしてくれた
ガジュマル(上:もう20年ちかく同居)と、
バオバブ(中右:ダカール産)の枝払いを。

バオバブの枝の生命力については、
セネガルで存分に目のあたりにしていたから
伐った枝(中左)を試しに水に差しておいたら、
芽が出る…ね…。

アマリリスにも、夢みるような蕾が(下左)。

年度末のホムパで、
ゼミ生の「オケちゃん」が転倒してダメージを
喰らわせたクワズイモの赤子(下右)も、
無事、一命をとりとめた。


一日物云はず蝶の影さす






2017年4月15日土曜日

ヘイドン・ホワイト 『歴史の喩法』

ヘイドン・ホワイトの新たな日本語訳が刊行されます。

ヘイドン・ホワイト 『歴史の喩法-ホワイト主要論文集成』 上村忠男編訳、作品社、2017年4月20日発行。

訳者の上村忠男さんが、ホワイトの全体像を示すため、独自に編纂された主要論文集ということで、ひとまず巻末の「編訳者による解題」と上村氏の論文「ヘイドン・ホワイトと歴史の喩法」を一読しました。

トロポロジカル(喩法論的)な光学のもとでホワイトが思考してきた「表象の歴史学」にとり、1990年のUCLAで開かれた会議「〈最終解決〉と表象の限界」がひときわ重大な事件として出来した点、また、この会議を開催するそもそものきっかけとなったのが、前年の89年に「歴史、事件、言述」をめぐってホワイトとギンズブルグのあいだで交わされた論争であった点など、問いを基礎づける論議の経緯が、ここでまず紹介されます。

当時の上村氏もこれをうけ、編訳論集『アウシュヴィッツと表象の限界』(未來社)を94年に刊行し、翌95年の『ショアー』日本上映にさいしては、多木浩二氏との対談「歴史と証言」を行っています。同じ年に多木氏が示した「方法としての退行」という発想の射程を、上村氏が独自に広げながら省察を深めていく箇所に、わたしは強い印象をおぼえました。
 表象の可能性と不可能性のとば口で文字どおり表象の限界を画すほかない事件が、西アフリカの近現代にもいたるところで暗闇のまま埋もれつづけていることはいうまでもありません。おととし琉大で開催された日本平和学会の分科会で、阿部小涼さんがクルギとの関連で言及されていた「見えないアーカイヴ」の修辞も、あらためていま、想起されてきます。

2017年4月12日水曜日

『スポートロジイ』第4号

稲垣正浩先生が主幹として編集されてきた
21世紀スポーツ文化研究所の
『スポートロジイ』最新号が、このたび発刊されます。

『スポートロジイ』第4号、2017年4月15日発行。

本号には、昨年2月6日に急逝された稲垣先生を追悼するという格別の志が込められています。

「稲垣先生が私たちに残された「有為の奥山の向こうを見据えた思想」には、人間の「死」を見据えた広大で深遠なスポーツへのまなざしが含まれます。そうした境地にあってこそ、人は「と共に在る」といえると思います[…] それを見据えて研究することはなかなか大変なことで、大きな宿題をもらったとも思うのですが、それを見据えることを忘れずにいさえすれば、私たちが稲垣先生「と共に在る」ことができるのではと夢想しています」
  (井上邦子「「有為の奥山の向こう」を見据えた思想」
                        [本号所収]より)

稲垣先生を中心とした下記シンポジウム、講演会の記録も掲載していただけたため、当日の自分のおぼつかない発言内容をできるだけまともな形に整えることができました。稲垣先生と、時を場をご一緒できたその記録をこのように残していただけることを、光栄に感じております。

特集Ⅱ 〈破局〉に向き合う、いま、スポーツについて考える
        稲垣正浩・中山智香子・橋本一径・真島一郎・小野純一・嘉戸一将・西谷修

特集Ⅲ 演出、あるいは人間的生存の基底- ピエール・ルジャンドルのダンス論から
        司会: 稲垣正浩 講演・応答: 森元庸介
        コメンテーター: 西谷修・小野純一・加藤範子・真島一郎

2017年4月8日土曜日

原初的叛乱者たちの系譜2017

collection privée
今年度の春学期も
今福龍太さんたちと交代で運営していく
リレー講義を、
例年どおりの時間帯と教室で開きます。

「原初的叛乱者たちの系譜 2017」

水曜日6限
109教室

わたしは次週12日から5月3日まで、 下の内容で今年も全力投球です。

どれだけ突飛にみえようが、
サモリ・トゥーレも
トマ・サンカラも、
そしてもちろんクルギも、すべて思考と想像の射程に入れた叛乱論です。

 


2017年4月7日金曜日

春学期2017


à Nouméa (mars 2017, i. majima)
今週からはじまった新年度春学期は、下記のとおり、おおむね昨年度各講義のテーマを継続させた内容で臨む予定です。
ゼミ生の方々が今年も授業外の読書会開催を希望する場合には、フランクフルト学派関連の尖った文献などをお勧めしようかと考えています。

月4 M演習 グレーバー『負債論』
月5 D演習 バタイユ読解Ⅱ
   『呪われた部分:不変経済論の試み』の
 第2巻『エロティシズムの歴史』、および
 サブテクストとしてフロイト「集団心理学と自我の分析」「トーテムとタブー」を精読したのち、同第3巻『至高性』に進む。 

火3 学部講義   「共同体」論
火4 学部3年ゼミ
火5 卒論ゼミ

水2 修論ゼミ
水3 リレー講義   「世界と出版文化」(初回講義&運営担当)
水6 リレー講義   「原初的叛乱者たちの系譜2017」(4月12日から連続4週を担当)

2017年4月6日木曜日

リレー講義 「世界と出版文化」

collection privée@majima
例年、東京外国語大学出版会が企画してきたリレー講義「日本の出版文化」が、今年から講義名を「世界と出版文化」(水曜3限/春学期)に変更し、パワーアップして始動します。昨日の初回には約150名の受講者がありました。
書籍編集、書店、図書館、ネットメディア、装幀といった領域でそれぞれ第一線のプロフェッショナルとして活躍されてきた方々も学外から講師にお招きし、出版文化の現在と未来をともに考えていきます。今年度は、いまのところ下記の内容(敬称略)を予定しています。

2017年度 リレー講義 「世界と出版文化」

01 04/05 真島一郎(本学)
  「世界と出版文化」
02 04/12 佐野 洋(本学)
  「日本語と出版技術-木簡からEPUBまで」
03 04/19 小林 浩(編集者/月曜社取締役)
  「人文系零細出版社の理想と現実」
04 04/26 井上一夫(編集者/元岩波書店取締役)
  「「知識の本」と「知恵の本」~岩波新書の編集作法」

05 05/10 伊東剛史(本学) 「イギリスの出版文化: 挿絵入り雑誌の歴史的意義」
06 05/17 星 泉(本学)    「小さな文学の闘い方: チベットの出版事情と作家たち」
07 05/24 今福龍太(本学) 「本の自叙伝」
08 05/31 十河 宏(編集者/紀伊國屋書店取締役) 
                   「書店と出版文化-特に海外での事例について」
09 06/07 日下九八(ウィキペディア編集者/ OpenGLAM Japan)
                   「出版という営み-文化のなかに、ウィキペディアを位置づける」
10 06/14 茂出木理子(東京工業大学 情報図書館課長) 「図書館と書物」
11 06/21 野平宗弘(本学) 「ベトナムの出版事情と作家たち」
12 06/28 桂川 潤(本学)  「造本装丁と本づくり」
13 07/05 橋本雄一(本学) 「戦争と出版 ~中国大陸から~」 

【授業の目標
この授業は、東京外国語大学出版会がコーディネイトしている授業です。目的は次の三つです。
1. 普段は完成態の本としか接点のない出版文化を、多様な視点から捉えることで、その全体像を獲得する。
2. 世界の出版文化の帰趨を、人文学そのものの運命に関わる問題として考えさせる。
3. とにかく本を好きになってもらう。
たんに出版文化についての知識を増やすだけでなく、真剣にひとつのキャリアの形として編集と出版について考えることで、キャリア形成についての明確な目的意識を持つことができるということが、到達目標であるということもできるでしょう。 
 【授業の概要
本学出版会の編集部や著者はもちろん、編集者、ブックデザイナー、書店のカリスマ店員、小出版の起業家など、第一線で活躍中の方々のリレー講義で進めます。 
【キーワード
人文学、新自由主義批判、知識人、読書共同体、出版文化、電子書籍。 
【授業の計画
大学と出版/知の活用法/戦後思想と人文書出版/書店から見た人文書/出版文化史/文学と出版/読書論/書物論/編集論/対抗的出版論などといった出版文化に関わる多様なトピックを取り上げます。

2017年4月2日日曜日

闇と声

東京外国語大学出版会の広報誌『ピエリア』最新号
(2017年春号)が、発行されました。

今年は、 「見えないものにふれる」というテーマで、特集が組まれています。

わたしは、「闇と声」と題する小文を書いてみました。

最後の一文は、1913年1月のカフカのフェリーツェ宛書翰にある警句のような表現が、以前から心のどこかに引っかかっていたせいで、ふいに訪れたのかもしれません。ドゥルーズのカフカ論で出逢った一句なので、次のフランス語訳でしか知りませんが。
« La nuit n'est pas assez nocturne...»  闇と声

出版会編集長としての短文も、あわせて巻末に記しました。 見えない読者とふれるために

2017年3月30日木曜日

2017年3月15日水曜日

シンポジウム記録 「越境とリミックスの世界文学」

昨年3月8日に参加したシンポジウムの発言記録集がこのほど冊子体で刊行されました。

高頭麻子編
『シンポジウム「越境とリミックスの世界文学」報告書』
 (大辻都・真島一郎・温又柔・沼野恭子・高頭麻子)
日本女子大学文学部・文学研究科、
2017年3月15日発行。

目次
開会挨拶とシンポジウムの趣旨   高頭麻子  2
カリブ作家の「渡りの文学」-マリーズ・コンデを中心に
                      大辻都   6
アフリカに根はあったのか-東アジアの視界から
                      真島一郎 16
境界線上の子ども-日本語圏の〈新しい〉台湾人として                       温又柔  31
時空の越境と〈ユダヤ性〉-ツィプキンとウリツカヤ
                      沼野恭子 43
ディスカッション                    53

シンポジウムのちょうど1年後にあたる先週8日(ロシア2月革命100周年記念日!!) に、上の高頭組メンバー全員で、会食の機会を得ました。「神楽坂の夕べ」の記念写真をFBにあげてくださったみなさま、ありがとうございました。

2017年2月27日月曜日

グラムシ 『革命論集』

グラムシ『革命論集』  文庫版にて新訳刊行!

アントニオ・グラムシ『革命論集』
上村忠男 編訳、講談社学術文庫、
2017年2月10日発行。

「本書は、アントニオ・グラムシが1914年から26年11月8日、前日に成立した国家防衛法違反の容疑で逮捕・収監されるまでの時期、すなわち、社会主義・共産主義革命の実現にむけて宣伝・煽動活動を展開していた時期の主要な論考を選んで訳出したものである」。
            (上村忠男 「編訳者あとがき」より)

日本語への初訳もふくむ57篇の所収テクスト、全600ページ超のボリュームをほこる点でも、獄前期グラムシの決定版といえる一書です。

逮捕1ヵ月前に執筆された「南部問題のいくつかの主題」にくわえ、おなじ1926年のイタリア共産党第3回大会で報告された、トリアッティとの協議執筆による大会テーゼも、本書には収められています。

このブログでもすでに記したかもしれませんが、
獄中記のグラムシについては、上村忠男氏の仕事のうちでも訳書『新編 現代の君主』(1994年、青木書店)や『グラムシ 獄舎の思想』(2005年、青土社)からかねて多くを学んできたところ、獄前期の思想に特化した今回の訳書刊行で、あらためて大きな宿題を上村先生からいただいたように感じています。

2017年2月22日水曜日

レジームとしての「共同体」/「副大統領」

今月になって、下記論文2篇の抜刷をそれぞれ著者から贈っていただきました。いずれも、おおきな枠組でいえばアフリカの政治体制にかかわる考察です。

岩場由利子
  「「共同体」制定過程にみるフランス第五共和制憲法と脱植民地化」『現代史研究』62:1-17、2016年。

鈴木亨尚
  「副大統領をめぐる政治-アフリカを中心として」『亜細亜大学アジア研究所紀要』43:45-131、2017年。

現在ボルドー留学中の岩場さんの論文は、フランス第五共和国が発足した1958年からわずか2年間のみ、フランスがサブサハラ・アフリカの当時の「海外領土」をふくめて規定していた「共同体 Communauté」の概念を制度史のレベルで再考するというきわめて興味深い試みです。 

「援助協力体制の構築を図りながらアフリカ側との関係をより強固なものにしていくフランスと、憲法の隙を突きながら連邦や関税同盟を形成し構成国同士で結束を高めていくアフリカ側の様子は、それぞれ別のベクトルを志向したものである。しかしながら、フランス・アフリカの協議を経て共通分野と独立権を盛り込んで組織化された共同体は、その後の両者の協力体制を前進させたのであり、決して通過点として軽視できる存在ではない」
(同論文、p.15より)

鈴木さんの論文は、 昨年発表されたご論考「大統領の多選制限をめぐる政治-アフリカを中心として」の続編として執筆されたものです。とくに、複数政党制下の「ビッグ・マン」を考察対象としたラリー・ダイアモンドの大統領制論をふまえて、民主主義との関連で「副大統領をめぐる政治」に焦点をあてた示唆に富む比較制度論となっています。事例として言及されているのは、ナイジェリア、ザンビア、マラウイ、赤道ギニア、南スーダン、ブルンジ、南アフリカ、セネガルの8ヵ国です。

岩場さん、鈴木さん、貴重なご研究の成果を、ありがとうございました。

2017年2月15日水曜日

伊東剛史・後藤はる美 編 『痛みと感情のイギリス史』

東京外国語大学出版会より、下記の論集を
来月刊行する予定です。

伊藤剛史・後藤はる美 編
『痛みと感情のイギリス史』
東京外国語大学出版会、2017年3月刊行予定。

[出版企画概要より]
17~20世紀のイギリスをフィールドとして、神経医学の発達、貧者の救済、聖職者の処刑、宗教改革期の病、魔女裁判、夫婦間の虐待訴訟、動物の生体解剖 などを題材に、6名の研究者が史料に残された〈生きられた痛み〉を照らし出し、感情史の射程と、それを取り巻く問題を説き明かす。

[目次]--------------------

無痛症の苦しみ(伊東剛史)
 

Ⅰ 神経 医学レジームによる痛みの定義(高林陽展)
 

Ⅱ 救済 19世紀における物乞いの痛み(金澤周作)
 

Ⅲ 情念 プロテスタント殉教ナラティヴと身体(那須敬)
 

Ⅳ 試練 宗教改革期における霊的病と痛み(後藤はる美)
 

Ⅴ 感性 18世紀虐待訴訟における挑発と激昂のはざま(赤松淳子)
 

Ⅵ 観察 ダーウィンとゾウの涙(伊東剛史)
 

ラットの共感?(後藤はる美)
 

痛みと感情の歴史学(伊東剛史/後藤はる美)
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この概要からもうかがえるように、本論集が感情史研究の最前線の仕事として話題にのぼることは、まちがいように思われます。 論集の刊行に先立って、このほど紀伊國屋書店の電子情報サービス KINOLINEも、じつにエッジの効いた情報ページを立ちあげてくださいました。 

『痛みと感情のイギリス史』と Eary English Books Online
      - 伊藤剛史先生・後藤はる美先生・那須敬先生 座談会
http://www.kinokuniya.co.jp/03f/denhan/chadwyck/umi/eebotalk.htm

編者の伊東剛史さんと後藤はる美さんに出版会編集事務室でいちどお会いしたさいにも、論集の熱気は存分に伝わっていたのですが、今回の情報ページは、EEBOのとてつもなく巨大な存在感もふくめ、知的刺激にみちています。座談会中の発言をふたつだけ、以下引用します。座談会全文を、ぜひ上記ページでご一読ください。満を持して来月刊行の論集本体も、ぜひお手にとってくださるよう、みなさまにお願いします。

伊東先生
 「一言でまとめれば、痛みとは何かという問題を、歴史学の視点から考えてみたものです[…]痛みがわたしたちの生に対して根源的な問いを投げかけるという理解は、もしかしたら歴史を通して一様だったわけではないのかもしれません。[…]歴史を辿り、時間を遡っていくと遂には痛みという言葉、つまりpainという文字が(少なくとも私たちの想定するようなかたちでは)資料に登場しない社会が現れます。 たとえば、17世紀半ばにクリストファー・ラヴという牧師が大逆罪により処刑されました。その処刑は、斬首刑で、公開され、多くの人々の注目を集めました。 しかし、処刑の様子がどれほど痛々しいものだったのか、ラヴ本人が経験した苦痛はどれほどのものだったのか、これを直截的に想像させる史料は残されていません。 もちろん、だからといって当時の人々は痛みを感じなかったのかというと、そういうわけではありません。 そうすると、そういった時代の、そのような社会での痛みはどういったものだったのだろうか、私たちの捉えている痛みの感覚とどのように異なっていて、どのように繋がっているのかという問いが出てきます[…]」

 那須先生
 「我々17世紀のイギリス史をやっている研究者にとってEEBOとは、British Libraryのリーディング・ルームに座るようなことなんです。 リクエストすればなんでも出てくる。それに取り替わったという感じですね[…]だから、何にせよ調査を始めるときには、まずEEBOを引く。二次文献を読んでいて、面白そうな一次史料を使っているなと思ったら、すぐEEBOで確認する。EEBOは図書館なんですよ。まず図書館に行くようにまずEEBO。そういう感じですね。」

2017年2月7日火曜日

ルフォール 『民主主義の発明』

クロード・ルフォールの主著が、このほど日本語訳で刊行されました。

クロード・ルフォール著
『民主主義の発明 - 全体主義の限界』
渡名喜庸哲・太田悠介・平田周・赤羽悠 訳
勁草書房、2017年1月25日発行。

原著: Claude Lefort, L'invention démocratique. Les limites de la domination totalitaire. Paris: Fayard, 1981/1994.

もし「全体主義」と「民主主義」の両者が互いが互いを前提とするような不可分のようなものなのだとすれば、「全体主義」の姿を「限界」まで追跡することなくしては「民主主義」そのものの意義についても理解できないだろう。「全体主義」とはそもそも何か、今日われわれがさしあたり「民主主義」だと思っているこの社会は本当にそう呼ぶのにふさわしいのか- そもそも「民主主義」って何だ、そうした問いを提起しつづけようとする者には、ルフォールの硬く鈍い衝撃は確かに伝わるにちがいない。 (本書所収、渡名喜庸哲「解説 クロード・ルフォールの古さと新しさ」より )

非常に喚起力のあるこの解説論文では、ルフォールの政治哲学における基本的な論点が、さらなる問いをうながすしかたで、二点明記されているように受けとめました。
ひとつは、 「全体主義国家は、民主主義に照らしてしか、そして民主主義の両義性にもとづいてしか把握できない」という、ルフォールの基本テーゼ。
ひとつは、 「政治的なものの場を、「人民」や「群衆」といったなんらかの主体なり実体なりによって占められることのない「誰のものでもない場/空虚の場」として捉え」るという、ルフォールの基本了解。
そして、これらふたつの問いが交叉する地平に、全体主義と民主主義の分節=節合点が現れてくることになるのだと思います。

権力という空虚な場に、大文字の〈人民〉が埋め込まれ〈一なる身体〉として凝固しつつ全体主義へと転化するのを妨げるために、民主主義はつねに内的抗争を通じて自分自身を多数化させ、自らを「ふたたび創出=発明するréinventer」必要がある……  (渡名喜「解説」p. 407および ルフォール本文p. 369より。一部編集)

渡名喜さん、太田さん、平田さんの連名で、本訳書の御恵送にあずかりました。
このたびのすばらしい贈り物、ありがとうございます。
共同研究の一環で、あの運動の現場、周防灘・祝島に渡名喜さんと一泊した晩が昨日のことのようです。

2017年1月21日土曜日

カッチャーリ 『抑止する力』 / アガンベン 『哲学とはなにか』

昨年末から年明けにかけて、上村忠男氏が新たな訳書2点を刊行されました。

マッシモ・カッチャーリ 『抑止する力-政治神学論』
      上村忠男訳、月曜社、2016年12月25日発行。

ジョルジョ・アガンベン 『哲学とはなにか』上村忠男訳、
             みすず書房、2017年1月25日発行。

 カッチャーリの著作で主題となるのは、カール・シュミットが『大地のノモス』で言及する『新約聖書』中の謎めいた形象「カテコーン」、すなわち「抑止する力」をめぐる新たな神学政治論です。
 たとえばそれは、神の意志の深淵のなかに書き込まれたものとして「正体を明かさないまま、教会のなかにとどまりつづけている反キリストたち」の姿。その抑止的な存在にひそむ力の両義性から、相手の存在理由をなんらかの仕方で承認するような〈仲介=媒介〉の空間が開かれていくことになります。
  しかし、現実の歴史のうちでカテコーンの抑止的な力が危機を迎えるとき、 当のカテコーンによって維持されていたプロメーテウス的秩序が、エピメーテウス(プロメーテウスの弟)の時の到来により復讐されることになるというのが、著者カッチャーリの予測です。とりわけ、世界の現在と未来を展望する本書末尾の一文は、読み手を戦慄させることになるかもしれません。

「プロメーテウスは引退してしまった。あるいはふたたび岸壁に縛りつけられてしまった。そしてエピメーテウスがわたしたちの地球を徘徊してはパンドラの壺の蓋をつぎつぎに開けて回っている」 (159頁)

エピメーテウスが扉をひらいてしまう永続的な危機の時とは、かつて『政治神学』のシュミットが、「例外状況」についてふれたのち鮮やかに描いてみせた、ドイツロマン派の「永遠の対話」と、そしてあの「純粋決定/決意」の対立と、どこまで交叉した問題系を形成しうるのか、大いに興味を惹かれるところです。

 アガンベンの訳書の方は、付録もふくめ5篇の論文から構成されています。
 このうち分量として訳書のほぼ半分をしめる第3論考「言い表しうるものとイデアについて」 では、問いの斬新な腑分けが冒頭から示されます。すなわち、「言い表しえないもの」が、非言語的なものとして言語活動そのものよりも「先に置かれ」てきたのは、ひとつの前提にすぎない。「言い表しえないものは言語活動の外部で正体の不分明な〈先に置かれた〉ものとして生じるのではなく、そのようなものである以上、言語活動の内部においてのみ絶滅させられうるのである」(65頁)。そしてこの特質とちょうど呼応するしかたで、もう一方の「言い表しうるもの」とは言語学的なカテゴリーではなく、存在論的なカテゴリーであることが論じられていきます。この言い表しうるもの、すなわち「認識可能なもの=グノーストン」に対応させつつかつてストア派で論じられた概念「レクトン」をはじめ、「場所/切り離し」を意味する概念「コーラ」にまで言及の奥行きを展げながら、イデア論の構制における「言い表しうるもの」の存在論が精緻に説き明かされていくという内容です。

 今週終了した秋学期の講義では、「孤独」「声」「音楽」といったサブテーマとも連動させながら、ほとんど不可能性を宣告された「共同」性がそれでも帯びうる潜勢力のゆくえを、非力ながら論じてきたつもりです。 半期をつうじて自分なりに試みた問いは、一種の力の存在論ですが、それも存在の諸層を注意深く剥離していく類のオントロジーというより、たとえば所有対象にも所有論の対象にもなりえない、存在それ自体の明証性を顕示するための論理の可能性でした。同じアガンベンのテクストでこれを喩えれば、「なんであれかまわない存在」を基調としつつ織りあげられた『到来する共同体』(上村忠男訳、月曜社、2012年)の後半にある、「外」と題された3ページほどの小文を理解することの可能性に繋がっていたような気がします。「哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる」という一文ではじまる、本訳書の末尾におかれた美しい付録論考「詩歌女神(ムーサ)の至芸-音楽と政治」にしてもそうですが、年度後半の講義を終えたこのタイミングで「声」と「音」の問題をこのように深く問う訳書にふれることは、望外の歓びです。

2017年1月12日木曜日

卒論・ゼミ論発表会 2016


à la Malaisie, mars 2008 (Ichiro MAJIMA)
今年度は下記のとおり、卒論&ゼミ論発表会を開催します。

日時: 1月24日(火) 午前9時30分より
場所: 研究講義棟3階333教室

今年の3年ゼミ生の15名のうち、4人は夏合宿を終えてそれぞれ長期留学に旅立ち(イタリア、インドネシア、カナダ、フランス)、のこる11名が懸命に力を尽くし、正月明けに無事全員、ゼミ論最終稿を提出しました。

ゼミ初の卒論提出者3名は、就活や家庭の切り盛りのただなかでよく耐え、どの方も見事な考察の生産者となりました。

タイトルは以下のとおりです。
(執筆者名略、順不同)






【4年生 卒業論文】
「シャルリ・エブド襲撃事件から考察するフランス国内の不平等-大統領の声明やデモが与えた影響」
「他者を引きいれるために-『イマナの影』における痛みの記憶」
「セミノール族と奴隷制度-ブラック・セミノールと呼ばれた人々の自己決定をめぐって」

【3年生 ゼミ論文】
「ケアワーカーの高齢者観とエイジズム-その特徴的な形態と要因、改善に向けた取り組み」
「宗教的マイノリティとして生きること-タイ山岳少数民族と仏教教育の関りについての考察」
「2008年5月「移民」襲撃事件-南アフリカ共和国における「移民」労働者の排除」
「接近しえない領域への接近-ピュリッツァー賞受賞作品「ハゲワシと少女」を巡って」
「日本人女性と「家庭」をめぐる「性」の解放-1965年から1974年にかけてのミニスカートの流行から」
「日々日雇い労働者として東京に生きること-1960年代の山谷を中心として」
「アフリカにおける利便性の向上と課題-タンザニアの日常生活に見える事例から」
「何故人々は他人の食べる姿に注目するようになったのか-韓国のモクバンの事例から」
「『虹の国』南アフリカ共和国のLGBTを取り巻く状況について
                           -1980年代以降同性愛者権利運動の歩みを通して」
「中華街の沈没」 (創作作品)
「日本の学歴社会における教育機会の不平等-親が子どもの進路決定に与える影響を通じて」

2017年1月6日金曜日

謹賀新年

au Liban, août 2009 ( I. Majima)


























  新年明けましておめでとうございます。
  Je vous présente, à vous tous mes semblables en Afrique,
                         mes meilleurs voeux pour la Nouvelle Année.     Ichiro Majima, alias Nousla Zèngbeu