2017年11月11日土曜日

わたしは、フェリシテ(幸福)

アフリカ映画のたいへんな傑作の出現です。アフリカ映画というより、わたし個人にとってはこれまで観てきた映画のうちでも、指折りの一作。FESPACO出品作のレベルまで設定を高めたとしても、これ以上の名品は、もうしばらく出てこないような気さえします。

『わたしは幸福(フェリシテ)』 Félicité
監督&脚本&編集 アラン・ゴミス     réalisé par Alain Gomis
129m、フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン

          2017年 ベルリン国際映画祭 銀熊賞(審査員大賞)
          2017年 FESPACO (ワガドゥグ全アフリカ映画祭) 長編映画部門金賞(グランプリ)

「彼女は幼い頃に一度死に、そのときフェリシテ(幸福)という新たな名前を与えられた。誇り高く、自分を折ることができない彼女は夫と別れ、バーで歌いながら、女手ひとつで息子を育てていた。賄賂や汚職にまみれたこの街はタフでなければ生きられない。容赦ない毎日。歌うときだけは、彼女のすべてが輝いていた。バーの常連、酔っ払いのタブーは、美しいフェリシテに気があるようだ。ある朝、フェリシテの家の冷蔵庫が壊れる。そしてその日、大切な一人息子が交通事故で重傷を負う。[…] 病院は前払いしなければ手術はできないと彼女に告げる。 金がすべてだ。愛する息子のため費用をかき集めるべく彼女はキンシャサの街を奔走するが……。フェリシテの幸福とは何だったのだろう。病院から戻った息子と冷蔵庫を修理する男。そして歌うこと。[…]」

「[フランスで育ったゴミスにとって…]キンシャサでの撮影は大きなチャレンジだったが、この映画はキンシャサで撮影されなくてはならなかった。完成した映画は、カサイ・オールスターズによる圧倒的なサウンドトラックの魅力のみならず、相対するかのように静謐なエストニア人作曲家アルヴォ・ベルトの音楽が重要な位置を占め、シングルマザーの困窮をリアルな描写で描く前半から深い森の闇の中に魂を見つめていく後半へ。[…]」 
                                 (いずれも、作品パンフレット「イントロダクション」より)

本作の監督アラン・ゴミスは、セネガル人の父とフランス人の母のあいだに生まれ、身近な縁戚関係として、ギニアビサウの一民族マンジャック Manjak のコミュニティとも繋がりをもちながら育ってきた人物のようです。そのかれがキンシャサで制作した本作にとって、上述のカサイ・オールスターズと、キンバンギスト交響楽団 -「キンバンギスト」ですぞ!- の音の力が欠かせざる存在だったことを、鑑賞者はすぐに理解することになるでしょう。移動する家系に生をうけたかれ自身が大いなる移動者であるゴミスのようなひとは、キンシャサの土地に立ち、キンシャサ独自の音にふれることで、「私たちにとってのアフリカ」ならぬ「アフリカである私たち」とその世界性を、たえず省察し、表現することになるのでしょう。

「Q: 映画の最後の詩はどういったものですか?
監督: あれはノヴァーリスの詩「讃歌から夜へ」の抜粋なんだ。面白かったのは、ドイツ語のテキストをフランス語に翻訳し、それをリンガラ語に翻訳したこと。ある哲学者によると、自分の特性の中に他者の空間を許したとき、他者の中に自分をみつけるそうだが、それがこの映画の中にもあると思う。この映画はキンシャサについての映画というより、むしろ「僕たち」についての映画なんだ。夜に呼びかけるノヴァーリスの詩は、今や消えさった19世紀のヨーロッパの伝統の痕跡に繋がっているとも言えるし、そこにアフリカが新しい命をもたらす。アフリカはグローバル化された世界の中心にあり、これからますますそうなっていく。僕にとって、それが現在だ。」
                                        (作品パンフレット 「監督インタビュー」より)

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日本の配給元ムヴィオラによる昨日の試写会で、暗闇のなか手さぐりで走り書きしたメモより。

・ 「夜には表と裏がある」 「おまえの女にもな」  (バーで、だれかとだれかが)

・ 夜のキンシャサで、あんなふうに酔っ払っていびきかいて道ばたで寝てみたい

・ アフリカの日常で、ひとが走ることがどれだけ異常か、ちゃんと何度も伝えてる

・ 森のくらやみの見えなさを、映像としてほぼ加工しないで長撮しするスゴさ

・ 「一人でいちゃダメだ」 (タブーが、サモに)


12月16日より公開: 日本語版公式サイト