2018年1月30日火曜日

桂川潤 『装丁、あれこれ』



























装丁家の桂川潤さんが、このほど自著を刊行されました。

桂川潤 『装丁、あれこれ』 彩流社、2018年1月30日発行。

本書は、『出版ニュース』の連載コラム「装丁」2012~17年掲載分に、数篇の文章をあわせたエッセイ集です。そのうちの一篇、「現実と異界をつなぐ扉」の初出誌が2015年の『pieria ピエリア』であるように、東京外国語大学出版会は、桂川さんにこれまでたいへんお世話になってきました。

とくに、日本の出版文化をテーマとして出版会がコーディネイトする学部リレー講義(このブログでも昨年紹介したように、今年度より講義名を「世界と出版文化」に変更)では、桂川さんに毎年ご登壇いただいて、階段教室に陣取る大勢の受講生が時を忘れて魅了される、目玉講義のひとつになっています。

「いつも何気なく使っている本ということばを『大辞林』で引くと… 本→書物→書籍→図書→本→ と、出口のない無限ループに陥ります。定評ある辞書すら定義できない「本」っていったい何だろう?」

「パッケージデザインとブックデザインの違い[…]本体の保護と広告機能という点は共通だが、装丁は本体と不即不離の存在だ。装丁は本の内容と現実世界を結ぶ「橋がかり」であり、用済みになれば捨てられるパッケージとは異なる。なぜ「本」を定義できないわたしたちが、自明のように「本」を語ることができるのか。それは五感を通して「本のかたち」を知っているからだ」(以上、本書 140-141頁)

「常々、装丁の要は「共感と批評」だと考えている。[…]やはり1%も共感を抱けない本の仕事はお断りするしかない。自分に嘘をつきたくないという以上に、装丁は、どうしても「内容へのオマージュ」と受け取られるからだ。 では共感する本への装丁が手放しのオマージュになるかというと、そうでもない。作品に没入しがちな著者・編集者の立ち位置から引いたデザイナーの眼が加わってこそ、本の存在が際立ち、奥行きが生まれる。装丁とは、いわば「視覚化」「物質化」によってテクストを批評する行為だ」 (本書170-171頁)

「読者は書店の店頭でいきなりテクストに出会うわけではない。目にするのはまずテクストを包み込む装丁であり、そこで要求されるのは「説明」ではなく「予感」だ。本を手にとる一瞬、「予感」としての装丁が作者と読者と結びつける」(本書196頁)

名著。